岡山 澤田山恩徳寺

 沢田山恩徳寺  岡山県岡山市中区沢田 613 

開基・天平勝宝二年(750年)  三論宗(空宗)本尊・薬師如来(伝行基菩薩作 等身大の薬師如来)
  

 岡山市沢田に備前国の名刹として知られる、沢田山恩徳寺(沢田薬師)があります。 寺伝によれば、行基菩薩(668 年~749 年)が、この地に草庵を結び、自ら等身大の本尊薬師如来を刻しました。これが恩徳寺開基です。その後、報恩大師(~795 年)勅命により、備前四十八ケ寺の一として恩徳寺を天平勝宝二年(750 年)に中興開山しました。 
  
<br恩徳寺は操山公園里山センターの隣に位置しています。
沢田は岡山市中心部近くにあり、豊かな自然が今も残り、四季折々の植物・動物・野鳥等・森林浴・ハイキング・バードウォッチングなどにすばらしい所です。沢田は岡山の有名な柿どころでもあります。


<br備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録(金山寺文書・文禄4年・1595年)による報恩大師の備前48ヶ寺中・第3番寺院であり、中国49薬師霊場第8番札所 、備前薬師霊場第8番札所寺院です。 薬師信仰で知られる古寺であり名刹として知られています。


<br恩徳寺は備前国府・高島を見守る四神相応の地にある寺院として知られています。

和歌、俳句、絵画、写真を趣味とされる方には最高の景勝地です。
 

PDFにて公開しております。

 

「西大寺鉄道名所案内」

 西大寺鉄道(1911年~1962年)の『西大寺鉄道名所案内』に竪巌尊が案内されています。
竪巌尊へは藤原駅(旧二本松駅)下車です。
西大寺鉄道とは後楽園と西大寺との間を結んでいた鉄道です。
地元民には「けえべん」の愛称で親しまれていました。恩徳寺詣でではなくて、竪巌尊詣でです。
多くの参詣者で賑いました。恩徳寺は神仏習合寺院です。

 

「狐付きを落とすとは」

 江戸時代の地誌『備前記』(1717年)に「此住持狐付を落す事其隠なし」という注目すべき記録があります。
「狐付を落す」というのは、澤田山医王院が「精神医学の病院」だったということです。
現代医学では精神科・精神内科担当の寺院でした。
寛文6年(1666年)、池田光政による寺社整理で破壊された禅宗寺院・医王院のことです。医王とは釈迦のことです。

 

 

曹源寺殿と恩徳寺

 江戸末期、嘉永5年 (1852年)仁王門を残して西方院焼失、恩徳寺にとって貴重な古文書を失いました。
恩徳寺19代住職 行聖は火災の中、仏像とお位牌を外へ持ち出しました。
火災を逃れ貴重な3人のお位牌が残されました。大屋根の備前揚羽蝶の寺紋を解く唯一の手かがりです。

 

摂社と末社

 山王権現(さんのう)は天台宗の鎮守神です。恩徳寺が天台宗を兼学していた時代からの鎮守神です。
最上正一位竪巌大明神の右側にありました。

 

澤田山恩徳寺と護国山曹源禅寺 

 護国山曹源寺(岡山市中区円山)は臨済宗妙心寺派の禅寺です。岡山藩主池田家の菩提寺です。

 

 

澤田山恩徳寺と高屋正八幡宮

 高屋正八幡宮(岡山市中区高屋)の正史を紹介します。
岡山市高屋村にあった恩徳寺末寺光明寺が寛文六年(1666年) 五月に、池田光政(1609年~1682年)の寺院整理により廃寺にされました。
光明寺は神仏習合寺院です。

 

 沢田山恩徳寺と明善寺

 『備前記』(1700 年~1717 年)の沢田村に、「西方院上ノ山ヲ、妙善寺ノ古城ト云、此城ニ毛利幕下、薬師寺弥五郎、中島大炊ト云者居城之時、沼ノ城主、宇喜多直家目黒村ヘ出張シテ攻ルト云、・・・」「毛利家ノ人数ノ、弓鉄砲ハ雨ニ濡テ用ニ不立ト云、」と記録しています。

 

ご存知ですか 三論宗開基伝承寺院

 恩徳寺開基時の仏教学派  三論宗

 

沢田山恩徳寺と吉備国

 

⇒平成23年11月 備前薬師霊場平成23年度秋季大祭祈願法会 法話 

 沢田山恩徳寺は日本に最初に伝来した仏教である三論宗開基伝承寺院である。
「何故、沢田に寺院を建立したのか」を考える時、注目したのが恩徳寺本堂前方右手の山上にある金蔵山古墳である。
私は、「沢田山恩徳寺は金蔵山古墳の埋葬者を祀るために建立された寺院である」と考える。
金蔵山古墳は操山の頂上部にあり、海から見える巨大古墳として築造された。海人族の首長の政治権力のシンボルとして築造されたものである。
4世紀末の築造である。 

 

澤田山 恩徳寺 会陽のシンギ材質 アオキ 

 岡山市沢田に備前国の名刹として知られる、沢田山恩徳寺(沢田薬師)があります。
恩徳寺は操山公園里山センターの隣に位置しています。  
沢田は岡山市中心部近くにあり、豊かな自然が今も残り、四季折々の植物・動物・野鳥等・森林浴・ハイキング・バードウォッチングなどにすばらしい所です。沢田は岡山の有名な柿どころでもあります。
恩徳寺は備前国府・高島を見守る四神相応の地にある寺院として知られています。
和歌、俳句、絵画、写真を趣味とされる方には最高の景勝地です。

 

平成22 年 沢田山恩徳寺 大護摩祈祷会

⇒岡山歴史研究会ブログ寄稿

 護摩(ごま)とは、「焚く」「焼く」を意味するサンスクリットのホーマ(homa)を音訳した語です。罪を滅し、障りを転じ、災害を除き、鬼魅疾病、疫病、国難、水旱不調、虫損苗稼、五星本命を悉く皆除滅し、煩悩解脱を求むるとされ、外的な災難・障害や煩悩・罪障などを除去します。
沢田山恩徳寺では僧侶のみにて毎年2月1日に行われます。

 

 

 

学館院記録所文書 調査報告

 「正保弐年(1645)学館院記録所文書調査報告書」 を 平成19年6月30日に 恩徳寺寺史編纂室より出版しました。

国立国会図書館の『日本全国書誌』に収録されました。『正保弐年(1645)学館院記録所文書調査報告書 : 田井一族の系譜 : 鎌倉時代末詫間へ配流 : 学館院記録平安時代~明治十年. -- 岡山 : 沢田山恩徳寺寺史編纂室, 2007.6. -- 248p ; 30cm NDC(9): 288.2 田井(氏) JP: 21265979』

平成20年10月1日付で東京大学史料編纂所より寄贈依頼がありました。

400冊製本し、ご指導いただいた諸先生と関係機関、関連図書館等へ寄贈させていただきました。各地の図書館て゛お読みください。

正保弐年(1645)学館院記録所文書 調査報告書

  岡山市沢田に備前国を代表する古刹・名刹として知られる沢田山恩徳寺があります。
沢田山恩徳寺の田井宏栄住職の実家(香川県三豊市豊中町本山)に一軸の古文書が伝来しています。
「正保弐年(1645)の学館院記録所文書」です。
この古文書は、檀家の方の紹介で平成3年に柴田一先生により先行調査が実施されております。


柴田一先生の先行調査により、下記4点が確認されました。

① 岡山県児島の田井一族とは、関係が無い。
② 石高制での記録がおかしい。
③ 学館院記録所文書である。
④  尾張国に田井城の記録があるか。 

荘内半島(香川県三豊市詫間)の中世史

 学館院記録所文書調査報告書Ⅱ

  江戸時代初期、正保弐年(1645年)の学館院記録所の存在を2通の学館院記録所文書『田井家・詫間家文書』の発見により証明しました。
「平安時代の学館院が、学習院として現在に生き続けている」として完結させていただきました。
 発刊後、多くの学館院記録所文書と学館院記録所記録の情報が寄せられました。
大量の学館院記録所文書の発見が、『荘内半島(香川県三豊市詫間)の中世史 学館院記録所文書 調査報告書Ⅱ』の出版を決意させました。

 

yanagi_rousi@yahoo.co.jp へ、ご意見・ご感想をお寄せ下さい。

http://www.geocities.jp/ki_warabi/index.htm    最新更新日2014/08/15

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